シンクロニシティ→クリエイション

初めての方はこちらからどうぞ。

2014年03月

2014-03-29-20-25-09


そろそろ書いておかないと。人間は忘れる生き物だ。もちろん記憶を忘れるという意味もあるが、そのときそのとき感じた感情はすぐに忘れてしまう。

僕が島根に行った理由。

僕は先週、島根に行った。片道7時間はかかる道のりを、ほとんど無計画でたったひとつの目的と手がかりを求めて。「なんで島根に行くことにしたの?」とよく聞かれるので、改めて頭の整理のためにもここに書いておこうと思う。

と、その前に、僕が教育という分野に興味を持ったきっかけから話さなければならないだろう。少し長くなるが、おつきあい頂ければと思う。

振り返ってみると出発点はどこだっただろうか。おそらく今の会社で働いて2年ほどたった頃、部署異動でこれまでとは全く異なる業務を任されたことからだろうか。

仕事のことについてはなかなか細かくは書けないが、音楽関係の会社で働いている僕は、以前はいわゆるレコードレーベルでCDの制作や流通まわりの業務を任されていた。しかし、新規事業の拡大のために人事配置を変えるということで、異動後の僕が任された業務は新人のアーティストを育成するという、人を扱う仕事だった。

まだ20代前半だった僕は、なんか地味そうな業務内容に少しだけ「んー。」という反応だったような気がする。まぁしかし、断る勇気もない僕はこれも何か意味があるんだろうという気持ちで、前向きに引き受けることにした。

人を扱う仕事は思った以上に難しかった。伝えることの難しさ、納得させることの難しさ、モチベーションを上げることの難しさ、とにかく思い通りに行くことの方が少ないんじゃないかというくらい、難しさを感じていた。

そんな中僕はアーティストの卵の子達と触れ合っているうちに、とある違和感をおぼえた。

それは、自分を出せない子が圧倒的に多いということだ。人前で思ったことが言えないということなら、話術の問題なので何歩か譲ってもいいとして、そもそも殻を破れないで人前でパフォーマンスをすることも恥ずかしがり、まわりの目を気にしてうじうじしている子が本当に多いのだ。

アーティストとは、悪い言い方をすれば見せ物とならなければいけない仕事なので、人目なんか気にしていていたら、いっこうに前には進めない。

実はアーティストの人にはどちらかというとコミュニケーションが苦手で、ネクラな人が多いのだが、いざ表舞台に立てば人目など気にせず、ぶっ壊れることが出来る。逆にぶっ壊れるくらい変だからアーティストになれるのだ。

それなのに、アーティストを志す人間が人目を気にしながら、まわりを伺いながらパフォーマンスをするなんて、滑稽にもほどがある。そもそも本当にアーティストになりたいのか?と疑いたくもなってくるもんだ。

言葉でどれほど伝わるかわからないが、これは本当に異常な程なのだ。

この子達はどう見ても、どう考えても窮屈そうに生きている。こんな生き方をしていたら、息が詰まって苦しくなってしまう。そう危機感さえも覚えた。そこで僕は考えた。なんでこの子達はここまで人の目を気にして、まわりを伺いながら生きているのだろう?

なんとなく浮かんできた理由は、ふたつある。

ひとつは…


◼︎ 答えを求めることに慣れてしまっているということ。

とにかく何をするにおいても、答えさがしをしているのだ。アーティストのあり方に答えなんかないし、何をすれば売れるかなんて本当にわからない。ある程度のメソッドやパターンはあるものの、「これをすれば正解!」なんてものは皆無に等しい。ビジネスでも恋愛でもなんでも同じだと思うが、最終的にはやってみなければわからないものだ。

しかし、大半の子達は、答えがあることを前提で物事を考えている傾向がある。常にテスト感覚なのだ。さらに言えば、「答えはあるんでしょ?だったら教えてよ。」的なスタンスの子もいる。もうそこまで行ったら、自分で道を切り開くという気もないのだろう。まぁ、その気がないというよりは、その方法しか知らないと言った方が正しいかもしれないが。

この子達は、考える習慣を身につけてこなかったのかもしれない。学校のテストでは答えが決まっているし、親にも「こうしなさい!」「ああしなさい!」と厳しく言われてきたのかもしれない。

言われた通りにしなきいけない、言われた通りにしなきゃ怒られる、と思っているのかもしれない。

そして、失敗を恐れているのもあるだろう。失敗したときに怒られると分かっていれば、行動は慎重になり、思い切ったことが出来なくなる。ひどい場合には身動きが全く取れなくなってしまうこともあるだろう。


ふたつめの理由は…


◼︎ 人と異なることに怯えているということ。

「出る杭は打たれる」という言葉があるが、やっぱりまだ日本の社会ではその風潮があると思う。みんな極力個性は出さないように、普通になろう普通になろうと必死になっている。

そもそも僕は、普通な人などいないと思っている。

みんな良いところもあるし、みんな変なところもある。全くの無味無臭でフラットな人間がいるならば教えてほしい。自分では普通だと思っていても、まわりから見たら変に映っていることなんていくらでもある。もし普通だと思う人がいるならば、その人はもともと普通なのではなく、とがった部分を極力出さないようにして、自ら普通を演じているのだ。

演じている意識があるならばまだいいが、ここで問題なのが、本人自身がそれに気づいていないということだ。無意識のうちに普通を演じ、目立たないようにと生きている。そして、ほとんどの場合、自分で隠しているにもかかわらず、自分には個性がないと嘆いているのだ。

---

この子達をここまで生きづらくしてしまっているのは誰のせいだろうか。もちろん本人達が自分自身で変えられることでもあると思う。しかし、これは僕たち大人にも責任はあるのではないだろうか?

教育のやり方次第で、もっと良く変えられるのではないだろうか?
果たしてこのままで良いのだろうか?

ここで、僕は教育というものに関心を持つようになった。自分にも何か出来ることはないだろうかと考えるきっかけとなったのだ。


長くなってしまったので、今回はここまで。次は、僕が教育に関心を持ち、そこからコミュニティの必要性を考えるようになった経緯を書いていこうと思う。






image


きょうはうちの社長の誕生日だった。毎年半ば定例化している、サプライズ(定義上では)バースデーを社員で祝うことになっている。今年も新人社員がオフィスの電気を消して、ケーキを持って登場するという、いつもと同じ流れだ。

まぁ、年にいっかいくらいはこうやって、定例と分かってはいるものの微笑ましい瞬間があるのはいいものだ。

実のところ、僕は別件で行かなければならない予定が入っていたので、今年の社長の誕生日はすっぽかしてそちらに行く予定にしていた。

僕は人の誕生日を覚える才能が全くないようで、元カノの誕生日なんかも別れたらすぐ忘れてしまう。たまたま飲みの席でそんな話になったときに、意外とみんな覚えているようで、感心したもんだ。

そんなこともあり、実は去年の社長の誕生日は普通に公休を入れてしまい、欠席してしまった。

さすがに2年連続不在はマズイな...と思ったので、やっぱり今年は残ることにしたのだが、理由はもうひとつあった。

こうやって定例化した、社長の誕生日を祝うのも今年が最後になりそうだからだ。会社を辞めることにした僕にとっては。

そんなに思いを入れるわけではないが、今の社長には非常に感謝している。

この人がいなかったら、経験値が無い僕なんか今の仕事にはつけなかったし、そんなペーペーな僕に期待をして、育ててくれたからだ。

かなり理不尽で、ついていけないときもあるが、情の厚い人間くさいところもあって、尊敬できる人のひとりだ。

だからちゃんとしようと思った。仕事を辞めてなにかしら起動に乗ってきたら、また会いに来たいと思っている。

そのときに、この誕生日のエピソードを話すのだ。

「あのとき、実は別件があって、参加する予定じゃなかったんですよ。でも、最後だと思ったら、この時間は大事にしなきゃって思ったんですよ。」

そんな話だけで、男は酒が飲める生き物だろう。

こういう積み重ねがストーリー作りにつながると僕は思っている。

人生を面白くするのは自分次第だ。自分のひとつひとつの行動をただの「動き」にしてしまうか、意味のある「ストーリー」に出来るのかどうかは自分次第ということだ。

おめでとうございます。
そして、ありがとうございました。

さて、このままもうひとつのお祝いに足を運ぶとする。


Free Money Collection in Cash
Free Money Collection in Cash / epSos.de

 
この前、仕事を辞めると宣言をした。そのとき、Facebookにとある友人がこんなコメントをくれた。 


「部活じゃないんだよ」


僕と同級生の彼は、かなり付き合いの長い友人なので、おそらく半分は冗談でコメントをくれたんだろうと思う。でも、残りの半分はマジレスなんだと思う。


勝手に彼のことを書かせてもらうと、彼はなかなかの良いとこ育ちだ。家が大金持ちというわけでは無いと思うが、不自由無く息子が問題なく大学に行けるくらい裕福で余裕がある家庭であることは間違いないだろう。

表面的にはチャラチャラしていて、女癖の悪いどうしようもない奴だが、自分の信じる価値観はしっかり持っていて、家族思いで、コミュニケーション能力が高く、人を楽しませることが好きな奴だ。家に遊びにいったときには得意の料理を振る舞ってくれる優しい一面もある。

そんな彼なのだが、実は僕との価値観が全く合わない。これでもかってくらい合わない。彼は、大手企業...ではないと本人は言うだろうが、僕のような弱小企業に勤めている人間からしたら、大手な企業で働いている。それなりに規模の大きいプロジェクトを企画運営することもあるようで、話しを聞くたびに感心している次第だ。
 
そんな彼も、去年めでたく結婚をした。このへんのことはプライベートなこともあるので、深く掘り下げるのは止めておくが、いわゆる世間一般から見た "幸せのカタチ" にレベルがあるとしたら、かなり高レベルのほうだろう。

彼からしたら、同い年の僕が、このタイミングで突拍子も無く仕事を辞めることは、マジで意味が分からないだろう。それは仕方ないと私だって理解している。

でも、僕からしたら、仕事を辞めるという決断は、決して部活を辞めるような軽はずみなものではないことは理解して欲しい。(なので、今回こうやって文章にしていたりもする。)
 
では、何故僕が突拍子も無く...いや、突拍子も無いように見えるカタチで仕事を辞めることにしたのか?それを綴っておきたいと思う。


■  現状への限界を本気で感じていた。

「仕事を辞める」と言い出したのが急だったので、まわりの人はみんな突発的に「何いってるんだ?!」と思ったかもしれないが、僕的には結構ずっと悩んでいた末に決断したことでもある。

では何に悩んでいたのか?それは、2つの限界を感じていたからだ。 

ひとつは、自分自身の限界。

今の職場、もしくは今の仕事のやり方では、自分はこれ以上大きくは飛躍しないとヒシヒシと感じていた。もちろん社会人経験を詰んでいく毎に出世はしているし、今はプレイングマネージャーのような仕事もさせてもらっている。(ただ、若干ブラックなので、残念ながら給料は微妙だ...。)

このまま努力をして、ジリジリと上に上り詰めていくことは出来るだろうし、そうやって行くのも有りだろうとこれまでは思っていた。頑張っていればいつかは...と自分に言い聞かせて激務をこなしてきた。 

しかし、そこにはずっと疑問がつきまとっていた。このままでいいのかと。このままで自分はこの社会の中を生きていけるのかと。

少し大げさな話しに聞こえるかもしれないが、本人は本気で悩んでいた。すぐにでも逃げ出したかった。おそらく鬱ってこの先にあるんじゃないかと思うくらいだ。その寸前までには行ったと思う。

そんな精神的にも、将来の未来的にも限界を感じていた僕は、ずっと逃げ場所を探していた。探して探して探して、自分が上手く生きれる場所を探していた。

そうしているうちに、「もしかしたらここなら...」と思える場所を見つけた。だから仕事を辞める決意をしたのだ。
 

ふたつめは、社会の成長の限界を感じていたということ。

どう考えていても、今の日本の成長は止まっている。というより下り坂になっている。(経済的なことは全く分からないので、なんとなくだが。)価格競争は激化し、人件費は大幅に削られ、過労死や自殺がニュースになることも珍しくない。

この状況を見て、みんなおかしいと思わないのだろうか?異常だと思わないのだろうか?おそらくみんな半ば仕方なくこの社会を生きている。仕事に関しても、学校に関しても、仕方なく通っている。仕方なく過去の誰かに決められたルールで生きている。

そのルールが、たとえ人を追いつめ、苦しめ、少数の優秀なものしか勝ち残れないルールだとしても、何も疑問を持たずに生きている。

僕はこのルールに常に疑問を持って生きてきた。みんなが「仕方ないよね」と半ば諦めているのが本当に不思議で仕方が無かった。だから常に変えたいと思っていた。自分の身の回りだけでも出来ることは変えるようにしてみた。 

でも、どうしても仕事だけは、人の決めたルールの中で生きることしか出来なかった。まぁ、仕事は経営者がいるので、そこに所属をしている限りは、ある程度のルールは仕方が無いといことも分かっている。

「会社に所属をしていても、変えられるよ」 「変えようとしてないんじゃないの?」と言われたこともあるし、そう言う人の言いたいことも分かる。だし、僕自身もそこに関しては同感だ。

でも、そもそも僕の考えているルールというものは、そんなレベルのルールの話をしているわけではない。 会社を変えればどうにかなるとか、言えば会社が変わるとか、そんなレベルではないのだ。

どちらかというと「文化を変える」 ということに近いのだろうか。坂口恭平さんが、「違うレイヤーで生きる」という言葉を使っていたが、そのイメージと非常に近いと思う。

まだそのへんを上手く説明する言葉を持ち合わせていないので、これから考えていかなければならないところだが、従来の価値観では限界があると考えているということだ。

言うならば、現在の社会は、ガラケーと同じようなものだ。

まだガラケーが主流だった日本の携帯電話市場では、折りたたみなどの形状の変化から、 カメラ、ワンセグ、デコメ、着うた、など、とにかく新しいことを足して足して足して足して、これでもかと足すことでアップデートされ、競い合っていた。

しかし、その競い合いに突如現れたのが、 iPhoneだった。

これまでのガラケーは、「カメラ付き携帯」 「ワンセグ付き携帯」というあくまでも携帯電話に何かが付属されているものだったところに、そもそもの携帯という概念を変えてしまう機能を持ち合わせたiPhoneが登場することで、「ガラケー業界」は衰退し、「スマートフォン業界」へと姿を変えることになった。

と、携帯電話市場での例をあげてみたが、僕が感じている限界というのは、このガラケーのようなものだと思ってくれればと思う。


以上、2つの限界を感じていた僕は、これまでの既存のルールに限界を感じ、新しいルールを探していた。新しいルールを必死に探しているときに、新しいルールを構築出来そうな場所を見つけた。だから飛び込んでみることにした。僕が仕事を辞めた理由は、ただそれだけことなのだ。

だから、僕にとって仕事を辞めるということは決して、突拍子も無いことでは無かったし、軽はずみなものでもなかった。どちらかというと、これまでのルールで生きることに危機感と焦りを感じていたうえでの、生きるために選んだことだということなのだ。


さて、この説明で彼にどのくらい伝わったかは分からないが、少しは考えを理解してもらえたら嬉しい。もっと既存のルールに対して疑問を持って欲しいというメッセージも込みで。今度会ったら聞いてみよう。


PS. 無許可でこうやって書いてるけど、許してね。 
 

2014-03-26-00-06-20


そういえば、僕の普段から思っている価値観を話しておかなければならない。これは僕にとって非常に大事な価値観だからだ。

それは...


『人生はフィクションよりも面白い』


ということ。

よく、街中ではこんな言葉が聞こえてこないだろうか?

「なんか面白いことないかなぁ」
「なんかつまんないなぁ」

こんなことを日々嘆いている人たちに聞きたい。「きみの人生は本当につまんないのか?」って。


昔、韓流ドラマがなんでこんなに流行ってるんだろうって考えたことがある。韓流好きの友人から話を聞いていると、いくつかのポイントがあることに気づいた。

韓流映画はテンポが良いということ。そして、ストーリーが分かりすぎるくらい単純なこと。

そりゃそうだ。主婦やOLの方々は忙しい。ご飯を作りながら、食べながら見ることだってあるだろう。洗濯物をたたみながら見ることもあるだろう。

そんなときに、ストーリーが複雑で一瞬でも見逃せない内容だったら、きっと韓流ドラマも流行ってないだろう。一瞬でキュンと出来る場面がたくさんあればそれでいいんだと思う。

じゃあ韓流ドラマに比べて、リアル人生はどうだろう?本当に面白くないのだろうか?

きっと多くの人が「面白くない」と答えるだろう。なぜかって?

それは...


人生が編集されたものじゃないからだ。


人生はたれ流しの生放送。テンポの良いカット割も、切迫した緊張感のあるBGMもない。ストーリーに起承転結も、次回予告も、エンディングもないのだ。

そりゃ編集された韓流ドラマの方が面白いに決まっている。決してイケメンが登場するからという理由だけで、韓流ドラマがこんなに人気なのではないはずだ。

じゃあ、自分の人生が編集されたらどうだろうか?美味しいところを切り出して、感動的なBGMをつけて、テンポ良く起承転結を演出したらどうなるか考えてみて欲しい。

個人的な意見としては、どんな人生も充分面白くなる可能性があると思う。人生を編集したものとは、それはつまりドキュメンタリー映画ということだ。

本当は自分の人生はドラマよりもリアルで、ロマンチックでスリルのあるドキュメンタリーなんじゃないかなって思う。みんなそれに気づいてないだけなんじゃないかって。

みんなそれなりに楽しいことも悲しいことも、辛いことも経験してる。そこにある魅力的なストーリーに気づいてないだけなんだと思う。

予定調和ではない、何が起こるかわからない最高のストーリーがそこにあるはず。

だからもう少し、自分の人生というドキュメンタリーに注目してみよう。出来れば頭の中で編集してみよう。そこから感じ取れるメッセージをイメージしてみよう。

そうすれば、きっと人生は面白くなる。

そう、フィクションよりも。


2014-03-25-00-51-08


きょう上司に、会社を辞めたいと伝えてきた。きのうの夜決断をして、きょう決めてきた。実際に考えた時間は24時間もたっていないと思う。

この先、目標はあるものの、それがどうなるかなんか今のところ全く見えていない。そんな僕を見て、大手企業で働く友人は「お前正気か?!」と半笑で言うだろう。

「もう少し考えなよ」
「食ってけんの?」

っていう人もいるだろう。でもこういう大きな決断をするときは、極力感性に任せて即決するのが一番だ。

その理由は3つ...


◼︎ 考えることで迷うことも多くなる。

時間をかけて考えれば考えるほど、余計な不安が増えてくる。

リスクヘッジをするためには、事前にシミュレーションすることも大事だと思うけど、残念ながら僕はそんなに頭がいいわけじゃない。

考えれば考えるほど「出来ない理由」が頭に浮かんできて行動できなくなるだけだ。なので、出来るだけ決断は早い方がいいと思っている。

あとは、決断をするときは、それほどの重要な出会いや出来事を経験をしたからということが多いと思う。

でも時間がたてば、その出会いや出来事の感動もどんどん薄れてきて「やっぱり今のままでもいいかな...」と現状維持になってしまうかもしれない。

それではいつまでたっても現状維持のままだ。失敗したらまたやり直せばいい。旬を逃して後悔するよりはまだマシだと思う。


◼︎ 早いだけで武器になる。

決断が早いだけで武器になる。僕の場合は早いことと勢いがあることしか、他の優秀な人に勝てる方法が無いと思っている。

三流大学を卒業して、就活もまともにしたことなくて、根性だけで社会人を乗り越えてきたような僕にとって、優秀な大学を卒業していて、海外にも留学をしていて、大手企業で働いているような人たちに、頭のキレでは到底かなわない。知識も経験値ももちろんかなわない。

勝てることはただひとつ。

何も考えずに即決すること。

他の人が考えている間に行動してしまうことなら出来る。失敗したらしたで、運が悪かったと思おう。どうせ考えたって、優秀な奴らにはかなわないんだから。

でも意外とこの行動は「お前すごいよな、おれには出来ねぇよ。」羨ましがられることが多かったりもする。皮肉でなければだけど...。


◼︎ 人生を楽しくするストーリーづくり。

ストーリーを作るコツは「どんだけバカなことができるか」だと思う。

仕事を辞めて新しいことをしたいと思っている人が2人いるとして、

・一ヶ月後に仕事を辞めると決めた人
・翌日に仕事を辞めると決めた人

どちらがバカだろう?一ヶ月後に辞めたって、結構普通だ。誰も驚きやしないだらう。

どうせ辞めるなら「何も考えないで、翌日辞めるって伝えて来ました!」って言ったほうが、「は?お前なにやってんの?!」って、人生のネタになる。そのネタに面白がって食いついてきてくれる。

自分の人生のストーリーをつくるのは自分なんだから、より面白くしていかないともったいない。みんなもっと楽しく生きればいいと思う。


そんな感じで、ぼくは大事なときだからこと直感を信じて即決をすることが多い。

ちなみに、これは対象が自分のことのときに限る。自分の人生だから、もし間違っていても自分で責任を取ればいい。

実際に退職出来るのは、今受け待っているプロジェクトの引き継ぎなんかを考えると、早くても6月ごろになりそうだけど、こうなったからには全力で楽しい人生にしたいと思う。

ぼくの周りには意外と「バカ」な奴が多いらしく、応援してくれる人がいっぱいいる。

本当に感謝しなければ。恵まれた出会いに感謝。





このページのトップヘ