little flame / fazen
「愛」という言葉を口にしたとき、たいていの人はむずむずした落ち着かない気持ちになるだろう。なんか腑に落ちないというか、地に足がついていない感じに逃げ出したくなるだろう。
それは、僕らが「愛」というものの正体をいまいち掴めていないからなんだろうか?
このあいだ僕は、とある子(19才の女の子)となぜか「愛」について語ることになってしまった。正直、僕も「愛」という言葉を口にすることなんかこっ恥ずかしくて、ふわふわした気持ちでいたものだ。
その19才の女の子は、「永遠の愛」について考えたいらしい。この年齢で、なぜそんなことを考えているのか?と不思議に思うほどの壮大なテーマだ。このままいけば有望な哲学者になれるかもしれない。(哲学者が将来有望かどうかは置いておいて。)
僕はその話しに乗って上げることにした。普段からその子の考えることや発言には興味があったし、こうやって語り合う場を、その子も僕も必要とし、飢えていたんじゃないかなと後で思った。
彼女の主張したいことは、こうだった。
「永遠の愛はある」
僕は、なぜこんなことを考えだしたかと聞いてみた。
彼女は答える。
『私の同世代の子たちって、彼氏が出来た出来ないで、すぐに上がったり下がったりするんですよね。ちょっとしたことでケンカしたからって「もう無理」ってすぐ別れちゃったり、彼が自分の思ったように行動してくれなかったら「彼氏が何もしてくれない」って勝手に怒ってばっかりいる。理想が高いというか、自分のことしか考えていないというか。今の欲求を満たすことしか考えてない。でも私は、その子たちの気持ちが良くわからない。だって、もしケンカをして嫌な思いをしても、その先に「愛」が生まれる可能性はまだあるでしょ?お互い未熟なだけかもしれないし、その一瞬のために「本当は続くかもしれない」モノを手放すのはもったいないなって思う。私は永遠ってあると思うから、永遠に続くものを探したいんですよね。』
ほう...。やはり良い哲学者になれそうだ...。つまり彼女は、同世代の女子とのガールズトークに不満を持っているらしい。「みんな、なんで目先のことしか考えてないんだろう?」と。
僕は更に質問を続けた。
『さっき「永遠」があるって言ってたと思うけど、んじゃひとつ質問させてもらうね。好きな人が出来て、その人に運命を感じて、結婚をしたとしよう。そこにはもちろん愛が生まれているだろう。でも、いずれは年を重ね、老いてくれば、どちらかが先立つことになってしまうよね?それでも「永遠」はあるって思うのかな?』
僕自身は、この質問への答えを自分なりに持っている。そして、彼女がどう答えるのかもなんとなく分かっていたが、若干いじわるをするつもりで投げかけてみた。
彼女は答える。
『んー。例えば、好きな人が死んでしまったとしても、そこに「愛」がちゃんとあれば続くと思う。例えば、子供と親の関係だったらそうでしょ?私のお母さんが死んじゃっても、私のお母さんに対する「愛」は変わらないし、その後もお母さんの「愛」も感じられて生きられると思う。』
彼女はよほど母親に愛されて育ってきたようだ。まぁ、聞く人によっては「きれいごとだ」と言われてしまうかもしれないが、こうやって自分の考えを主張することはとても素晴らしいと思う。そして、彼女の主張する「愛」についての考えは僕も同感だ。
日々生活していて、物質的なものの価値がどんどん薄れてきていると感じている。東日本大震災以降は特にだ。3年前のあの震災は、「カタチあるモノの価値」「カタチあるモノの脆さ」「カタチあるモノに頼っていることの弱さ」について充分に考えさせられた災害だったはずだ。
しかし、この忙しい極まりない日本の都市部では、まだまだカタチのあるモノに縛られ、目の前の感情や欲求に目を向けることが「生き抜く」ための必須条件になっているような気がする。
それは今を生きることに精一杯で、先のことを考えている余裕がないからだろうか?それとも、みんな見て見ぬ振りをしているのだろうか?
これからはもっと持続可能で、彼女の言うような「永遠の愛」が感じられるような社会を構築していく必要があると思う。
「インディアンは7世代先の子孫を想い生きる」
というのは有名な話しだが、インディアンのような古くから文明を育ててきた原住民のような価値観を「僕らも持つべきなんじゃないか?」と本気で考えなければならない時代が必ず来る。
僕らの課題...いや今のところは僕個人の課題にしておくが、これから向き合うべき課題は「持続可能なものをこつこつと作り上げること」だということを、ここに宣言しておこう。
そして、彼女には「永遠の愛」ついてもっと考えてもらうことにしよう。