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2014年05月


So pants my soul. / {Salt of the Earth}


現在、島根行きの夜行バスの中。

まだ眠くないし暇なので、FBで書いた自己肯定感について改めて書いてみる。ついついFBで書いてしまう癖が抜けないのである。

教育系の話をすると必ずと言って登場してくるほど存在感がましてきた、自己肯定感くん。否定的な世の中を変えるために、必要な存在として救世主のように扱われることもしばしば。

「子供に自己肯定感を与えよう!」 

というお考えの方も沢山いると思う。

でも、僕はこの「自己肯定感を与えよう!」という言葉に違和感を感じている。ってか、自己肯定感って与えられるものなのか?と疑問に思っていたりする。

自己肯定感。それは自己を肯定すること。自分自身が自分自身のことを認め、好きになること。この感情に他者が入り込む余地は無いような気がするのだ。

たとえ他者から褒められようが、 おだてられようが、それは他者から肯定されているだけで、自分のことを好きになれるかはまた別問題なんじゃないかと思う。

例えば、とても疑い深い人がいるとする。その人は他者から「きみはすばらしい!」と褒められたところで「どうせ嘘だろ」「どうせ社交辞令だろ」とひねくれた感情をいだいてしまうかもしれない。

こういう人はいくら他者から肯定されようが、満足することはないんじゃないだろうか。

では、どうすれば自己肯定感を得れるのか??


僕は自己肯定感を得るための出発点は「他者肯定」にあると思っている。

この「他者肯定」とは、さっき述べた「他者に肯定されること」ではない。

「他者を肯定すること」

自己肯定感を得るためには、他者を肯定することが必要なんじゃないかと思う。

自己肯定感が得れない人は「自分なんて」と自信を持てず、自己否定ばかりしている。その人達がなぜ自信を持てないのかというと、自身のコンプレックスにとらわれてしまっているからだ。

自身のコンプレックスを「悪者」としてとらえ「どうせ背が低いから」「どうせ太っているから」「どうせ頭が悪いから」「どうせ話が苦手だから」というように自己否定に走ってしまう。

こういう人は大抵、「自分のことを認められない」のと同時に「他者からも認められていない」と思っていることが多い。「こんなダメダメな自分は他者から認められるはずなんか無い」とも思っているかもしれない。

それも全部、コンプレックスを「悪者」としてとらえているからだ。

コンプレックスを「悪者」としてとえてしまっている場合、どういうことが起こるかというと、自分のコンプレックスだけではなく、他人のコンプレックスも「悪者」として見えてしまっていることになる。

自分の顔を見て「うわ、不細工だなぁ」と思っている人は、他人の顔を見ても「うわ、不細工だなぁ」と思ってしまっている。「この人は不細工で可哀想だなぁ」「だから自分も不細工なのは嫌だなぁ」と、悪いところばかりにフォーカスしてしまい、自己否定に走ってしまう。

んでは、他者を肯定することで、なぜ自己肯定感が生まれることになるのか。

他人のコンプレックスを「悪者」としてとらえるのではなく、良いところにフォーカスすれば「この人は場の空気を明るくするスペシャリストだなぁ」「この人は気が利くし良いお母さんになりそうだぁ」とコンプレックスがあるからこそ得られるチャームポイントも見えてくることになる。

他人の良いところが見えてくれば、「たとえ顔は整ってなくても、それだけでは人の価値は計れない」「他に良いところがあれば、魅力的な人間になれる」と思えるようになってくる。

そうすれば自分のコンプレックスの悪いところばかりに目がいっていたのが「自分だって良いところがある」というように思考に変化が現れてくる。

自己肯定感とは他者から与えてもらうものではなく、自分で気づくものなんだと思う。

「なんで自分は認めてもらえないんだろう」「自分なんてダメな人間だ」と自分ばかり責めている人は、ぜひ一度正直に向き合って考えて欲しい。

「他人を認められているのか?」

ということを。

ちなみに僕自身は、ずっと「自分のことを認めてもらいたい」「なんで認めてもらえないんだろう」と思っていた。でも、ふとしたときに気づいてしまった。自分自身が他人の意見を認めずに自分の意見ばかりを通そうとしていたことに。それに気づいた瞬間、それまでの自分がずいぶん滑稽なものに思えた。

自分を認めてもらいたいばかりに、人を認めることを忘れていたなんて。

このエピーソードについては、またの機会があれば書いてみるとして、それ以降僕は「自分が得たい」と思うことは「人に与える」ことを意識している。そして、今そうすることで意外と解決することは多いものだなと実感している。



2014-05-11-16-44-03

5/10〜2泊3日、中学生の頃の同級生の結婚披露宴に出席するために、八ヶ岳に行ってきた。(挙式はすでにハワイで挙げている)今この記事は、帰りの送迎バスのなかで書いている。みんなお疲れのようで、あきらかに首をおかしくするんじゃないかと思う姿勢で寝ている人がいたりもする。

今は八王子を抜けたあたり、すっかり景色は壮大な緑から灰色な人工的な街並へと変わった。

今回、同級生に招待してもらった披露宴に出席して感じたことを書いてみようと思う。

八ヶ岳にて、自然溢れるなかでの豪華なホテルでのパーティー、二次会、そして宿泊を体験して、こういう自然資源がある観光地での結婚式は素敵だなぁ、心から思うことができた。これまで友人や親戚の結婚式に出席した中では、一番充実した時間を過ごすことが出来たんじゃないかと思うくらいだ。

そして今回感じたことは「自然の中にかこまれて、場所や時間にしばられることなく、幸せの余韻に浸る時間を充分にもうける」ということは結婚式&披露宴を行うにあたって、とても需要なことなんじゃないかということ。

先日、「愛」というものを考えるような記事を書いたが(http://ikikata.blog.jp/archives/5768743.html)、この結婚式という「別々の人生がひとつにつながる瞬間を祝福するイベント」こそ、「愛」について「愛情」について誰でもフラットに話しが出来る機会であることは間違いない。

都心部でパーっと盛大に挙げるのもそれはそれで良いが、どうしても時間にしばられてせせこましい内容になってしまう。着慣れないスーツやドレスを着てかしこまった会に出席するだけでも、たとえ座ってメシを食っているだけであろうが、疲れきってしまった経験は誰にでもあるだろう。

そこから家に帰り、次の日の仕事のことを考え、日々の日常へとスパッと切り替えなければならず、新郎新婦にとっては一生に一度(じゃ無い場合もあるけれども)の大切なイベントなのだから、出席者も、もっとそこに生まれた感情について向き合い、語り合うことも大切にしたほうが良いんじゃないだろうか。(結婚式には新郎新婦の本当に大切な人達を呼ぶということを前提にしておこう)

決して形式をなぞるだけではなく、もっと目的に目を向けた内容にするべきなんじゃないかと思う。

結婚式、披露宴の目的は、本来どういうものなのかは分からないが、僕自身の理想を語ると、結婚式とは「新郎新婦の人生に関わっている大切な人達が、ふたりの祝福を祝うとともに、お互いの人生を共有する場」なんじゃないかと思う。

新郎の人生に関わってきた人達、新婦の人生に関わってきた人達、この2つのグループが新郎新婦が愛情と幸せを育んだおかげで、奇跡的につながることが出来る。その奇跡的な状況をもっと祝福するべきなんじゃないかと思う。

これまで縁もゆかりもない人達同士が2人の「愛」によってつながったわけなんだから、もっと時間をかけて祝福をし、もっと時間を共有し、もっと人生を共有するキッカケや場にしたほうが意味のあるイベントになると思う。

これが充分に行われれば、例えば毎年の結婚記念日にその仲間同士でパーティーを開いたり、BBQやキャンプのようなアウトドアを楽しんだりすることができるかもしれない。それはそれは素敵なことじゃないだろうか。


「新郎新婦2人が愛を育んだことで生まれたコミュニティをつくること」

そして、

「そのコミュニティで共有する人生を広げていくこと」


これが今後、結婚式の目的として当たり前になっていけば、「予定調和」になりがちで、堅苦し形式だけの会にはならずに、みんなが満足し持続性のある幸せを共有することができるんじゃないかと思う。

もっとソーシャルな結婚式へ。
これから考えていったら面白そうなテーマだ。

今回のパーティーに招いていただいた、Yさん、Hさん。2人の開いたパーティーには、このソーシャル感を感じることが出来ました。だからこれまで参加した結婚式とはことなる感情を抱いたんだと思います。そして、お二人の人柄と考え方に心を動かされました。もっともっと良い意味で影響を受けたいなと思いました。

お二人の幸せ、優しさだけではなく、素敵な価値観までも頂いて、僕も幸な気分です。
ぜひ今度また、じっくりゆったりお話しましょう。

改めまして、ご結婚おめでとうございます。
末永くお幸せに。

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